音楽家と、その国籍などの属性について考える

「音楽に国境はない」。そのようなことが、よく言われる。

元々、歌詞を伴うか伴わないかに関わらず、基本的に音楽は「非言語的表現」だと言うべきだろう。それは「音」という、それ自体は言語的な意味を持たない抽象的手段によって表現をするからである。

さらに、今やネットを駆使すれば、古今東西の多種多様な音楽に容易にアクセスできる世の中である。音楽の作り手にとっても受け手にとっても、「音楽に国境はない」という言葉は、ますます現実味を増しつつあるようにも思える。

しかし、本当にそうなのだろうか。音楽から国境はなくなったのだろうか。

だいぶ前の話になるが、東洋人が西洋音楽を演奏する意味を問う記事が、新聞に書かれていた。その問いの答えとして、指揮者の小澤征爾は「音楽をやるのに、演奏家がどこの国の人間かなんて関係ない」という趣旨のことを語っていた。

しかし当時、英国でも活躍していた指揮者の尾高忠明の答えは、小澤のそれとは違っていた。

「本音を言えば、彼ら(西洋人)は僕たち(東洋人)にはやってほしくないと思っているでしょう。他に優れた人がいなければやむをえない、というところではないですか。日本人だって、西洋人がやる歌舞伎なんて観たくないでしょう?」

この記事を読んだ当時の私は、どちらかというと尾高の意見に共感を覚えたのを思い出す。小澤の「音楽をやるのに国なんて関係ない」という意見は、もちろんある意味では正しいのだろう。

しかし、音楽家もひとりの人間である。自らが生まれ育った国の文化の影響をまったく受けないまま音楽を作れるはずがない。そう考えるのが自然ではないか。

ピアニストの内田光子も、ある人間がつくる音楽には、普段その人が使っている言語の影響が大きいと指摘していたのを思い出す。

たしかに、フランス語を話しながら育った音楽家と、ドイツ語を話しながら育った音楽家は、その発する声または楽器の音の性格にも違いが出そうだ。

音楽家と国籍の関係と言えば、ヴァイオリニストの五嶋みどりが、こんなことを語っていた。

最相葉月『絶対音感』(小学館1998年発行)という本に出てくるエピソードである。著者が五嶋家を訪れ、みどりと母の節にインタビューした際の会話だ。以下に引用させてもらおう(284から285ページ)。

《 たとえばこんなのはどう、と節は問いかける。
「カーテンの向こうに十人のバイオリニストが並んで弾いたとして、その子がどこの国の人かわかる?」
「わかると思う。日本人、韓国人、ロシア人、男か女かもわかる。ピアノだともっとわかるかもしれない」
ーなぜわかるのですか。
「弾き方、音楽性の違い。でも、ロシア人は最近国外に出てしまっているから、キャラクターが減ってきているかもしれない。オーケストラも、弦楽器の最初の一、二小節聴けばどこのオーケストラかわかります」
NHK交響楽団は男性が多いからか、音が丸いわね。PMFオーケストラは、まさに混じっているという感じ」
「男の人のほうが音が丸い。女性はファイアーがある」
「みどりはアメリカの色も知った東洋の女っていう感じね。チョン・キョンファもそう。諏訪内晶子さんは日本の女っていう感じがすごくする」
あなたも聴き比べればきっとわかるわよ、と節は笑った。》

いかがだろう。音楽ファンなら、誰しも唸ってしまいそうな会話ではないだろうか。私は予備知識がないまま音楽を聴いたとき、その演奏家の国籍まで言い当てることなど到底できない。

もちろん、ど素人の私でもグレン・グールドやキース・ジャレットなど、音色や弾き方に唯一無二の個性を持つ一部の音楽家なら、演奏の出だしを少し聴けば、事前の知識なしに演奏者を判別できることもある。

しかし、五嶋みどりのように、アジア人と西洋人の違い、男女の違いすらわかるというのには驚いてしまう。あらためてクラシック音楽家の耳の凄さ(いや、五嶋みどりの耳と言うべきか)を思い知らされるエピソードだ。

ここでの会話では、演奏家の国籍のみならず性の違いにも触れられてはいるが、国籍による音楽性の違いというものは、やはりあると思って間違いないようだ(少なくとも、この本が書かれた1990年代においては)。

それにしても、「男の人のほうが音が丸い。女性はファイアーがある」という、五嶋みどりの言葉には、「そうだったっけ」と私は思わされたものである。この本を読むまで、あまり気にしていなかったことだ。みなさんも、これからは、そんなところにも耳を澄ませて音楽を聴いてみてはいかがだろうか。

少し話がそれるが、例えば1950年代から60年代のジャズを聴いていると、演奏者が白人か黒人かを比較的簡単に判別できることがある。一番わかりやすい例が、‘Kind of Blue / Miles Davis’である。

あの有名なアルバムでピアノを担当しているのはビル・エヴァンスである。私が初めてこのアルバムを聴いたとき、1曲目の‘So What’が終わり、2曲目の‘Freddie Freeloader’進んだ際に「あれ? ピアニスト変わった?」と思ったものだ。

クレジットを見ると、やはりこの曲だけはピアノをウィントン・ケリーが担当していた。さほどジャズを深く聴き込んでいたとは言えない私でさえ、一聴してわかる違いだった。おそらく黒人ピアニストであろうという予想も、そのとおりだった。

しかし、現代に録音されたジャズを初めて聴いたとき、その演奏者が白人か黒人かを言い当てることは、おそらく昔よりも、ずっと難しくなっているだろう。

国籍、性、人種、そうした属性が、その音楽家の奏でる音色や音楽性に、さほど強い影響を及ぼさなくなってきている。もしかしたら現代は、そういう時代なのかもしれない。

古い話だが、以前、TBSテレビの『NEWS23』という番組で、筑紫哲也が指揮者・ピアニストのダニエル・バレンボイムにインタビューしていた。バレンボイムは、こんなことを語っていた。

「私は、芸術の世界においては、高度なナショナリズムが存在できると思っています」

そう言えば、プリンスも存命中(もう第一線を退いていたと言ってよい頃だが)、こんな風なことを語っていた。

1980年代には多様性というものがあった。しかし今は、みんながひとつの方向に向かってしまっている」

バレンボイムとプリンス。やっている音楽ジャンルはまったく異なるが、音楽家が上のような発言をするようになってきたということが意味するのは、世界の音楽の中で、多様性が薄れてきているということなのかもしれない。

昨今では「音楽家として優れていれば、国籍、性別(性的嗜好)、人種や民族など関係ない」ということを言う人は多そうだ。しかし、優れているかどうかはともかく、育った国、または性、人種や民族により、その音楽性に異なる味わいが滲み出るということは、むしろ楽しいことだろう。

しかし、もしも実際に、クラシック音楽、ジャズ、ロック、R&Bなど、それぞれのジャンルの内側での多様性が若干失われているのだとしても、相変わらず世界にはさまざまな「いい音楽」が溢れている。そんな今こそ「自分が楽しむ音楽ジャンルを広げていく」ことで、それを補うことができるのではないか。

現代では特にネットを駆使することで、数十年前ではまったく考えられないくらい多様なジャンルの音楽に、容易にふれることができるようになった。

過去につくられた「人類の偉業」と呼ぶべき素晴らしい音楽。そして、これから生まれていく新しい音楽。それらの両方を、現代ほど豊かに楽しむことができる時代は、かつてなかった。

これは本当に「革命」と呼んでもいいくらいのことだと、現在50歳のおじさん(笑)は思ってしまう。時々、「生まれてくるのが20年くらい早過ぎたかもしれない」と考えることがあるくらいだ。

長くなってしまったので結論。

人類がこの世にある限り、音楽によってもたらされる輝かしい喜びは続いていく。音楽よ永遠なれ…。

* この記事の中での音楽家の発言は、『絶対音感』からの引用を除き、すべて私の記憶によるものです。趣旨として、そのようなことを語っていたことは間違いありません。しかし一字一句、見聞きしたままではないことをご了承ください。

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