自分自身で考えること、行動することについて

みなさんは普段、自分自身の頭で物事を考えていますか。

「そんなの当たり前じゃん」という答えが、あちこちから返ってくる気もします。でも、ここで私は問うてみたいのです。

まず、ひとつの例として、服などの流行について考えてみます。多くの人が興味を持っていて、わかりやすいからです。

初めに思い出すのは、紺のブレザーのことです。私が大学にいた頃なので、80年代後半のはずですが、特に男子学生の間で、紺のブレザーが流行ったことがあります。略して「紺ブレ」と呼ばれていました。

あの頃、毎朝、通学のために私が大学の最寄駅から出ているバスに乗ると、男子学生の乗客が10人いたら、そのうち7人くらいはブレザーを着ていたように記憶しています。

彼らが身につけていたブレザーの多くは、伝統的なデザインをもつ、濃紺の生地に金ボタンがついたものでした。

しかし、紺色のブレザーなどというものは、特に流行ったり廃ったりする種類の衣服ではないというのが、一般的な感覚でしょう。

私は昔から、世間の流行に乗ること自体に興味がありません。

もちろんブレザー自体には何の罪もありません。あれは、制服の匂いを少し感じさせはするものの、クラシックで品の良い上着です。

しかし、ブレザーを流行の服と信じ込み、あれだけの人数で同時に着て街を闊歩する彼らの姿は、私の目には奇異に映りました。とにかく「みんな同じ」というのが、日本人は大好きなんですね。

次に大流行した服のひとつが、3つボタンの上着です。

たしか1990年代前半の頃だと記憶しています。もう誰も彼もが3つボタンのジャケットを着用し始めました。そして2つボタンのジャケットは、絶滅したかと思うくらい少なくなりました。

スーツという衣服の歴史を、私の知っている範囲で簡単に説明します。

この上下揃いの衣服が発明されたとき、上着は3つボタン、その下にヴェストも必ず着る、いわゆる「スリーピース」が標準でした。

『ダウントン・アビー』のような、20世紀前半を舞台にしたドラマを観ていてもわかりますよね。

それこそ貴族から使用人、農夫まで、きちんとした服を着用すべき場面では、必ずヴェストを含めたスリーピースのスーツを着ています。上着は多くの場合、3つボタンです。

しかし、後にアメリカ人が、ヴェストを省略したツーピースの着こなしを始めたそうです。そのほうが、きっと楽だったのでしょう。2つボタンの上着も、後になって発明されたと聞いています。

つまり、3つボタンの上着のほうが先に存在していた。そして、もちろん2つボタンは2つボタンで生き延びてきた。単に日本人が、3つボタンの上着を、新しい流行品だと思い込んでいただけなのですね。

比較的最近の流行に目を移すと、メガネのことを思い出します。

ひと頃、それこそ猫も杓子も黒のウェリントンのメガネをかけていたのを、みなさんも覚えているでしょう。特に若い男性の間で流行っていました。

街で10人の若者とすれ違うと、7〜8人が黒のウェリントンをかけていたような気さえします。みんなでウディ・アレンのモノマネ大会をやっているようでした。

ところが今は、どうでしょう。

ウェリントンより丸みを帯びた、いわゆる「ボストン」と呼ばれる型のメガネ、あるいはラウンド型のメガネをかける人が激増しています。色も黒だけではなく様々なものを見かけます。

そして、黒のウェリントンをかけている人は確実に減りました。黒縁メガネ自体は今でも定番品ですが、やや細身のフレームが増えているように見えます。

そうそう、書いていて思い出しました。たしか90年代の前半には、プラダの黒いリュックも大流行しました。特に若い女性の多くが、あれを背負って歩いていた光景が脳裏に蘇ります。

あの凡庸なデザインの化学繊維製リュックのどこがいいのか、私には、まったくわかりませんでしたが…。

寄り道が長くなり過ぎたかもしれません。そろそろ総括しましょう。

要するに、日本人の特徴のひとつは、最大多数派が右に行くと、他の人たちも一斉に右に行く。最大多数派が左に行くと、他の人たちも一斉に左に行く。

そして、ある意見が多数派を占めると、その場の「空気」に従わないといけないという暗黙の力が働く。これは外見上は静かですが、実際には、とても強い力です。いわゆる「同調圧力」ですね。

もういい加減、我々は、自分自身の頭で物事を考えるべきではないでしょうか。そして、たとえ自分の意見が圧倒的な少数派であったっとしても、勇気を持って、それを表明しましょう。

昨今、「ダイバーシティ(多様性)」とか「みんな違って、みんないい」という類の言葉が、時代のキャッチフレーズのごとく喧伝されています。しかし、この国の現実は、それとは程遠いです。

私が思うに「和をもって尊しとなす」という考え方、まず、これを思い切って捨てることから始めたらいいです。

もちろん基本的には、人と人は争い合っているより、仲が良いほうが素晴らしいに決まっています。

しかし、「和をもって尊しとなす」と日本人が言うときの「和」というのは、「自らの意思を放棄してでも、他人と同調せよ」という意味にしか、私には見えません。

たとえば日本の小学校では、靴箱への靴の仕舞い方まで、全校児童に統一させているところが、いまだに存在します。両足の靴をぴったり揃えて入れろと指導しているのです。

一体、どこが「みんな違って、みんないい」なのでしょう。

私は、人間がやってはいけないことは、極論すれば、ただひとつだと思っています。

それは「他者の自由と権利を侵害しない」ということです。

自分専用に割り当てられた靴箱に、少しくらい靴を大雑把に入れておいたところで、他の子を傷つけることはありません。

几帳面な性格の子は、きちんと揃えて入れればいいし、大らかな性格の子は、適当に入れておけばいいです。

それよりも、他の子の意見や行動を尊重する、いじめをしない、そうしたことこそ大事です。

もし喧嘩や争いが起きたら、より重い過失のある側の子が、自らの間違いを認めて謝罪する。もしも可能なら、仲直りをする。

もし、どうしても不可能なら、たとえ子ども同士であっても、無理に仲良くする必要はないと私は思います。世の中の全員と仲良くすることは、大人であれ子どもであれ不可能です。それは生きていれば、誰もが知っている事実です。

英語には、“Agree not to Agree”という表現があると、私は耳にしたことがあります。

直訳すると「同意しないことに同意する」ということですね。

「私とあなたの意見は正反対であり、絶対に同意には至らない。しかし、あなたが、あなた自身の意見を持つ権利を(その意見が、人としての倫理に反しない限りにおいて)私は認める」

私は、この英語表現を、上に書いたような意味なのだと理解しています。

この国の人間に最も欠けているのが、こうした物の考え方です。

日本人の中には、一度でも他人から批判されると、まるで自分の全人格を否定されたかのように過剰な反応をして、怒り出す人もいます。

あるいは、なにか間違いをすると、自らの全人格をかけて謝らねばいけないと思い込むので、芝居掛かった土下座をして謝罪する人までいます。

こうした態度の根っこにあるのが、「和をもって尊しとなす」ではないでしょうか。

以前、村上龍のエッセイを読んでいたら、以下のような趣旨のことが書いてありました(今、その本が手元にないので、記憶の範囲で書きます)。

村上龍が小学生の頃、子どもたちみんなで、学校の校庭かどこかの草むしりをするよう、教師から命じられたそうです。

彼は女性教師に質問しました。

「先生、どうして草むしりをしなければいけないんですか」

「どうしてって、そう決まっているからです」

村上龍は、さらに尋ねます。

「どうして、そう決まっているんですか」

「決まっているから決まっているんです」

すると、そのやり取りを聞いていた男性教師が村上龍のところにやって来て、龍少年は頭を殴られたそうです。

彼は「学校の草むしりなんかしなくても、誰も傷つかない」という趣旨のことを書いていました。本当にそのとおりですね。

現代において、教師が子ども達全員に学校で草むしりをさせ、その指示に従おうとしない子どもの頭を小突いたりすることは、ないでしょう(そう信じたいです)。

しかし、こうした、あからさまな「暴力」という形を避けながらも、靴箱への靴の仕舞い方ひとつまで子ども達に統一させる、この国の姿を見ていると私は思います。

日本は「個人の自由と権利」を、まだまだ本気で尊重しようとはしていないのだと。

他者の自由と権利を尊重することで、同時に、自らの自由と権利が尊重されるのだと私は思います。

自分以外の人間に、肉体的、精神的、経済的、他にもあらゆる意味でダメージを与えない限り、人は自由に考え、行動できるべきです。

何が「善いこと」で、何が「悪いこと」なのか、私は常に自分で考え、行動するよう心がけています。

この日本という国では、道路にゴミは少ししか落ちていません。トイレは、とても清潔です。列車は、きわめて正確に運行されます。コンビニの店員さんたちも礼儀正しいです。

でも最近、この国で生きていると、私は何か言いようのない息苦しさを覚えます。その原因の大きな部分を、上に書いたことが占めているのではないでしょうか。

さて、この文章は既に、かなり長くなってきました。ひとまず、この拙い考察を終わらせます。

あとは、みなさん一人ひとりが、まさに自らの頭で考えてください。そして、考えたら、それを行動に反映させてください。