新年を迎えて ~最近気になる言葉~「一定の効果」とは

また新しい年がやってきました。

昨日、今日と、おそらく世界中の新聞、雑誌、またはソーシャルメディアの中で、「新年の希望」あるいは「当たり前の日々が懐かしい」という主旨の記事が書かれているでしょう。

もちろん私にも、胸に秘める決意や希望はあります。しかし、それは文字通り、自分の中に秘めておきたいので、ここには書きません。

ひとつだけ言えるのは、過去数年に比べれば、私は自分のために使う時間を、今年はちょっとだけ多く確保できそうだということです。

このブログも、最低でも月に1回、できれば2回更新したいと考えています。(とはいえ、予定は未定。あまり信じないように!)

私は理屈っぽいところがあり、世間のいろいろなことについて考えるのが趣味のような人間です。今後も、ごちゃごちゃと理屈をこねていく所存ですので、よろしくお願い申し上げます。

さて、ここからが本題です。

この2年間、世界中が新型コロナに振り回されている間に、それまでは聞きなれない言葉を、我々はたくさん耳にしました。

「感染爆発」、「緊急事態宣言」、「三密」、「ソーシャルディスタンス」、「ブースターショット」などですね。

一時期、日本政府が提唱した「ワクチン検査パッケージ」という考えは、一瞬で消え去った印象があります。私がこの言葉を聞いた時、「ワクチンと検査キットが入ったパッケージみたいだな」と思ったので、念のため”vaccine inspection package”でググってみました。

すると、やはり通常の英語表現として、「ワクチン、検査、パッケージ」の3語の組合せは「出荷前のワクチンバイアルの検査及び包装」の意味でのみ使われているようでした。今回もまた、日本人お得意の和製英語が新たに出現しただけなのでしょう。

おっと、話がそれました。まあとにかく、次から次へと新語が登場するので、私のようなオジサンは、ついていくのが大変です。

ところで最近、私が気になっているのは、「一定の効果(または成果)」という言葉です。数年前よりも、この言葉を聞く頻度は、明らかに高まっている。そう感じるのは私だけでしょうか。

たとえば政治家がテレビカメラに向かって、こう言います。

「~は、感染拡大防止に一定の効果があったと考える」

政治家以外でも、感染症を専門とする医師や学者などが、同じ表現を用いています。

この「一定の効果」という言葉は、実に便利です。たとえば、ある人物が「一定の効果」ということを言ったとして、その人物が、その効果に対して、どのように評価しているかを隠しておけるからです。

その発言者が、「予想していたよりも効果があったな」と考えて高く評価しているのか、あるいは「あんまり効果なかったな」と思って残念に感じているのかさえ、曖昧にしておくことができる。それが、この「一定の効果」という言葉の魅力ですね。

もちろん、政治や学問に限らず、確定的なことを安易に言うべきではない場合に、あえて「一定の効果」という表現を用いることは、ある意味では誠実さの表れです。

ただ、それにしても、新型コロナウイルスの拡大以前と以後とを比べると、明らかに拡大以後のほうが、「一定の効果」という言葉の使用頻度が高まっている気がしてなりません。

もうこれからは、政治家のみならず、我々のような一般人も、後で言質を取られたくない場合は、とりあえず一定の効果と言っておけば、なんとでもなるのではと思えてきます 笑

そう言えば、かつて村上龍が書いた、あるエッセイのことを私は思い出します。

そのエッセイが書かれたのは、日本社会で「させていただく」という表現が流行り始めた頃でした。おそらく、今から10年以上前のことでしょう。今では頻繁に使われる、ごく当たり前の表現になりましたね。

村上龍は当時、次のような内容のことを書いていました。

「この『させていただく』という表現は、『自分はこのことを、自分よりも権威のある他の誰かから依頼されてやっている』という雰囲気を漂わせることができるため、責任の所在を曖昧にするのを好む日本人は、この表現が大好きになり、あっという間に日本中に広まった」

彼のこの論評は非常に的確に、この国の人間の性質を言い当てていると思い、私は感心したのでした。

昨今、「一定の効果」という言葉が流行(もしそれを流行と呼ぶべきならば)しているのもまた、多くの日本人が持っている、責任の所在を曖昧にしたがる性質の表れではないか、という気がするのです。

そんなわけですから、この私のブログも、一定の更新頻度と一定のクオリティを保つよう、全力で努めさせていただきます。

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