なぜ人は仕事のやり方を口頭で教えたがるのか ~自分の苦労を他人にも強要することについて~

7月も、今日が最後の日だ。まさしく光陰矢のごとしである。

日々、さまざまなニュースが目に飛び込んでくるから、なおのこと、時が経つのを早く感じる。

相次いで起こる疫病、戦争、災害。さまざまな事件や事故。異常なまでの暑さ。本当に地球は大丈夫なのか、いや、人類は大丈夫なのか。

最近、驚嘆すべきことが頻繁に起こり過ぎるため、できるだけ驚嘆しないようにする技を、自分が身につけつつあるような気さえしてくるから恐ろしい。

さて、今回はタイトルが示す通り「なぜ人は仕事のやり方を口頭で教えたがるのか」について考えたい。そして、その背後にある、人間という生き物がもつ本質についても考察したい。

これは、まさに私自身が属する組織(目黒区役所)の問題でもあり、長い間、疑問に感じ続けていることなので、一度は書いておきたかったのだ。

古い話で恐縮だが、私が社会に出てから、既に四半世紀以上の時間が経った。当時からパソコンという機械は存在していたが、それぞれの業界独自の業務用システム及び端末が主体であり、常にパソコンがないと仕事ができないというわけではなかった。

私の職場でも、まだワープロ専用機が幅を利かせていた。ワープロとは、「ワードプロセッサ」の略語である。実物を見たことがない人に説明するとしたら、「プリンタ一体型の電気式タイプライターのようなもの」とでも表現すればいいだろうか。イメージが湧かない人は、ネットで画像を検索してください。

具体的に製品名を挙げると、東芝の「ルポ」、シャープの「書院」などが人気機種だった。うーん、なんとも懐かしい。懐かし過ぎる…

なお、あの頃は、手元のキーボードを見ずに文字入力することは「ブラインド·タッチ」と呼ばれ、そのこと自体が、ちょっとしたスキルだとみなされていた。今では多くの人がしていることだが、まあともかく、そういう時代だったのだ。

たとえば私の職場では、2000年代の半ばくらいまで、何かにつけて書類を印刷し、必要に応じて手書きで訂正、その訂正した箇所をボールペンの二重線で消し、訂正した事実を示すためのハンコを押していた。

上司に決裁を求めるのも、順次、書類を回して、上司が承認したという証拠としてハンコを押すのである。「紙」という物質性をもつ書類、そこに「ハンコ(印鑑)」を押すという手続の効力が強かったのだ。

時間がなくて急いでいる時には、「持ち回り」といって、文字通り、自ら作成した書類を上司のところに持って回り、関係者のハンコを次々に押してもらうのだ。その際は、口頭でも「持ち回りで、お願いします」と伝える必要があった。

要するに、「自分は今とても急いでいるので、書類の中身はサッと見る(見たフリをする)だけで構わないから、早くハンコを押してください」と、上司に軽くプレッシャーをかけるのである。今になって思うと、なんだかなあ、という世界である。

古い時代の話が続いたので、一応ことわっておくが、ある種の人々が飲み屋で語りたがる類の自慢話(いわゆる武勇伝)を、私は好きではない。

年齢の高い人が「昔はよかった」と懐古主義的に語るのも、若い人が「そんなの古いですよ」と訳知り顔で言うのも、私は両方とも嫌いだ。

「昔がいい」とか、あるいは反対に「古いからダメ」とか、世の中はそんなに単純に割り切れるものではないからだ。

年齢を重ねていても、現代の価値観を取り入れようと日々意識して行動する人間もいるし、たとえ歳は若くても、現状維持が大好きで、何かを変える(変えられる)ことを頑なに拒む者もいる。それが世の現実である。

ただ、現代社会を考えるうえで、かつての習慣や物の考え方を知っていることには、それなりの意味があると私は思うため、あえて昔話も交えて書くことが多い。そのことを、ご理解いただきたい。

それでは、話を現代に近づけよう。

特に21世紀に入ってから、社会のデジタル化が徐々に進み、今日では多くの職種の人々にとって、個人で使用するためのコンピュータ、つまりパソコンが欠かせないものになった。

パソコンの使用方法または使用する頻度は、それぞれの業界や職種で異なるだろうが、コンピュータやファイルサーバのようなものが身近に存在することの利点として、その仕事に新しく就いた人に対して、仕事の進め方を、口頭で教える必要性が減ったことを挙げることができる。

かつては、業務マニュアルの類を作ろうとしたら、かなりの部分を手書きで作らねばならず、相当な手間暇を要しただろう。結果的に、どうしても口頭で教えざるをえない部分もあったはずだ。それはある程度、私にも理解できる。

しかし今では、少なくとも一人に一台のパソコンがあるのは、当たり前の光景になっている。私の職場もそうだ。

ところが、いまだに、私は役所の中の他部署に異動するたび、周囲の職員に対して、あれこれ細かい質問を重ねないと、(私にとっては)新しい業務に関する知識を得ることが難しい。この四半世紀もの間、この組織の性質は変わっていないと感じる。

結局、既にその部署に在籍していた職員から私が聞き取ったメモなどをもとに、私がパソコンに向かって明確な文章に整理し、マニュアルとしてファイルサーバに保存するという作業をする。

この時間と手間は、はっきり言って、相当なものになる。しかし、他の者は本気でやろうとしないので、やむをえず私がやっているだけだ。

口承文芸を次世代に伝えるような特殊な仕事に就いている人ならともかく、我々は主にデスクワークをしているのだ。特に、既に形が決まっている仕事の進め方は、すべて文書化しておけばいい。

昔なら、小さな修正をマニュアルに施しただけで、そのたびに紙を印刷して再配布する必要があっただろうが、現代ではディスプレイに映し出される文章を読めばいい。

本来なら、新しいプロジェクトであれ、ずっと前から存在している定型的業務であれ、新しく赴任した社員が、早く新しい業務を学ぶためにも、過去から蓄積されてきた知識は、できるだけ文書化されているべきだ。

しかし実態は違う。毎年毎年、他部署から異動してきた職員に対して、必要な知識の大部分を、他の職員が口頭で教えている。これでは質問する側も、答える側も、まったく時間の無駄である。もちろん、お互いの労力の無駄にもなる。

決まっていることはマニュアルを読んで覚えて、本当に細かいことや、現場で経験を積んだ人間しか知らないことだけを質問すればいい状態が望ましい。

ただし、マニュアルなど作っても、自らの評価が上がるわけではないからだろうか、いまだに口伝えを主とした方法で、既に在籍していた社員が、新しく配属された社員に仕事の方法を教えている。

こうした、きわめて効率の悪い方法で業務知識の伝達を行う傾向は、その職員の年齢や経験とは、まったく関係がないように私には見える。

端的に言えば、この現象は、「自ら進んで役に立つことをしよう」という意志の欠落でしかない。あるいは「面倒なことはやりたくない」という、非常に理解しやすい人間の性質である。

マニュアル化できるものは、さっさと文章として整備し、業務の引継ぎを効率化したいと願う私のような人間は、きわめて少数派なのが常である。

なぜ、その気になれば簡単にできる効率化という作業を、ここまで彼らがやりたがらないのか、私は本当に不思議でならない。

その原因について、私には少し思いついたことがある。まあ、これは単なる想像、ほとんど憶測と言ってもよいが、せっかくなので、ここに残しておこう。

彼らは、自分がもっている知識を口頭で他人に教えることに、実は快感を覚えているのではないだろうか。

ここで、怠惰な彼らの心中を私が勝手に想像し、セリフにしてみよう。それは次のようなものだ。

「自分だって、この部署に配属された時、一生懸命に周りの社員に質問して、新しい仕事を覚えた。なのに、どうして来年に配属される新しい奴は、しっかり整備されたマニュアルに従って、かつての自分よりも楽に仕事を覚えられるのか。これは不公平である。次に配属される連中も、自分と同じような苦労を味わうべきだ。だから自分は、マニュアル整備なんていう面倒なことは絶対にしないぞ!」

いかがだろう。少しばかり私の想像力が豊か過ぎただろうか。

だが、中学校や高校で部活動の経験がある人なら、似たようなことを考えたことは、ありはしまいか。ここで、またもや私の想像力を発揮させ、中学校や高校の部活動に励む学生の心中を察してみよう。

「自分は部活に入った一年生の間、先輩(二年生以上)からいびられて、散々我慢してきた。だから、自分が二年生になったら、新しく入部した一年生にも同じことをしてやろう」

これまた、私の想像力が豊か過ぎただろうか。しかし、上に書いた二つのセリフは、人間というもの(少なくともある種の人間)がもつ本質が、如実に現れているのだ。

その点で、これらのセリフは、使われている言葉は異っても、根本的に意味するところは同じである。

要するに、「自分が苦労したのだから、他人も同じように苦労すべきである」という、卑屈と言ってもいい心情である。

しかし、この心情は案外、世間の人間の多くがもっているもので、こうした性質をもつ人々にとっては、容易に越えられない壁なのかもしれない。

また、こうした心情は「負の連鎖」をもたらしやすいのだろう。だからこそ、長年にわたり続いてきた「無駄」を劇的に軽減させる手段(典型的にはコンピュータやAIといったデジタル技術)を手にしてもなお、その無駄及び苦労が、連綿と受け継がれているのではないか。

もちろん、この私の考えは推論でしかない。私は、自分を取り囲んでいる、頑固なまでに効率化をしようとしない同僚や上司達に、個別のインタビューをしたわけではないからだ。

ただ、その一方で、私の推論も、あながち大きく外れているわけではないとも思うのである。

私もそれなりに長く生きてきたが、その結果見えてきたのは、人間というもの(その人物)の本質が、いかに変わらないか、ということだからだ。

彼らのことだから、私が想像しているのと同じ理由で、効率化のための作業あるいは誤った現状を是正する作業を、必死に避けようとしているのではないか。そのように私は推測するのである。

かなり長くなってきたので、今回はここで話を区切ろう。

自分が経験した苦労を他人にも強要することは、負の連鎖を生むだけである。その忌々しい負の連鎖は、あなたがその気になれば、いつでも断ち切ることができる。それを断ち切ろうとしないこと、または静観して諦めることは単なる怠惰であり、ほとんど他者への憎悪と呼びうるものである。

私は「自分と同じ苦労を、次に来る人にはさせたくない」と考え、また、それを実現するための作業を、可能な限りやってきた。このように考える人間を、組織の中で多数派にする方法は、果たして存在するのだろうか。

私には、まだ残された時間があるので、今よりはマシな組織にしたい。冗談抜きで。

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