2022年を振り返って

今年もはや大晦日。特に抱負なんてものは掲げていなかったけれど、目標のひとつにしていた月1回のブログ更新は、この記事をもって、なんとかクリアとなる。

まあこれも、年間で計12個の記事をアップしたので、平均すれば月1回になるというだけ。本来なら定期的に月1回更新したいところだが、今年はこれで良しとしたい。

かつて他所でやっていたブログに比べたら、記事ごとの文章の平均量が大きくなっているし、肝心の質だって(自分で言うのもなんだが)今のほうが優れている。

世の中で働いて生活費を稼ぎ、飯をつくって食べ、子を育てる。そういう日々の営みの積み重ねが、私が社会を見るときの角度を変えたし、また深めてもくれた。

おそらく2000年代に入ってからだろうか、この社会の表面はピカピカに磨かれ、きれいになってきた。だが、それと引き換えに、何か大事なものが失われつつある気がする。

もちろん「きれいになった」というのは1990年代以前との比較である。日本にも世界にも解決すべき問題は文字通り山積していて、きれいにしなければいけない部分は、まだまだ多く残されている。しかし、世界(少なくとも西側諸国)が、市民の権利向上、特に人権意識の向上を伴いつつ徐々に進歩しているのは確かだ。

それにしても、私は毎日のように思ってしまうのである。朝に家を出て、夜に家にたどり着くまでの間、他人から一度も不愉快な思いをさせられない一日を過ごしてみたい、と。

現代において、それは「奇跡」としか言いようがない。表面はきれいになっても、いや、むしろ「みなさん、きれいにしていなさいね」という社会から個人への圧力が強まっているからこそ余計に、多くの人間がその内面に鬱憤のような感情を溜め込んでいる。そんな風に見えてしまうのだ。

今年も(昨年以前から引き続き)、私を絶望的な気分にさせてくれた事象がたくさんある。ここに少しだけ挙げてみよう。

救急車がサイレンを鳴らしながら近づいてきたというのに、平然と横断歩道を渡り続け、挙げ句の果てには救急車を停止させる歩行者たちの姿。その後も、救急車と歩行者たちは、お互いにどちらが先に動き出したらたいいのか分からず、お見合いになってしまう。

歩行者よ、お前たちは交通ルールを知らないのか? その車の中には、今すぐに病院に連れて行くべき人間が横たわっているのだぞ。

歩いていて人とぶつかりそうになったとき、「すみません」という言葉を発するのは、たいてい私の側だけ。仕事場でも、駅のホームの上でも、スーパーの中でも、場所はどこでも共通に見られる。あるいは、混んだ電車から降りるとき、無言でグイグイと身体を押してきて強行突破を試みる輩とか。

あの〜、「すみません」って日本語、知ってる?

まあ、こんな感じである。もはや枚挙にいとまないので、ここらでやめておこう。わざわざ年の瀬に不愉快なことを思い出してもしょうがないのだが、現代社会を生きるとは、ある意味で、こうした無礼者への耐性を高める修行と化している。

ここで書こうが書くまいが、早速明日にでも不愉快な思いをさせられるのは必定である。段々どっちでもよくなってきてしまう。

まあ、せいぜい日々の飯を楽しみ、適量の酒を嗜みつつ、自分自身が落ち着ける時間を確保するしかないのだろう。そのことは今までと変わりはしない。

美味い飯、旨い酒。ここに優れた音楽、映画、書物またはアートを加える必要がある。さらに私の場合は「書く」という出力の作業、これは来年も同時進行させるつもりである。

それでは、このあたりで。善人のみなさん、よいお年を。