「時代の洗礼」は失われたのか

かつて、「時代の洗礼」(または「時の洗礼」)という言葉がありました。「ありました」と過去形で書く理由は、最近、この言葉を耳にすることが、とても稀になったからです。いわゆる死語になった感すらあります(死語という言葉自体が死語か?)

時代の洗礼という言葉の意味を、私なりに解釈します。

質の低い芸術作品が一時的に高い人気を得ても、時が経てば人々は飽きてしまい、次第に世の中から忘れられ、いずれは消える。そのように長期的な視点で捉えれば、最後に生き残る作品は、質の高い「本物」だけだ、ということです。

ひと言で言うなら「淘汰」。

私が、時代の洗礼という言葉について真っ先に思い出すのは、『ノルウェイの森』という小説です。これは1987年に発表された村上春樹の長編で、発売当初からベストセラーになりました。読んだことがある人も多いでしょう。

『ノルウェイの森』の発売後、数年が経ってから、私もこの作品を読みました。そして、今でも印象に残っている台詞があります。

主人公である大学生のワタナベと同じ下宿に、永沢という名前の、東京大学に通っている男子学生が住んでいます。この男は、かなりの読書家という設定になっていますが、死後30年を経ていない作家の本は原則として手に取らないという主義の持ち主です。彼はワタナベに向かって、こう言います。

「現代文学を信用しないというわけじゃない。ただ俺は時の洗礼を受けていないものを読んで貴重な時間を無駄にしたくないんだ。人生は短い」

私がこの小説を読んだのは、まだ20代の頃でした。若かった私にとって、時間はほとんど無限にあるような気がしていました。だから、この永沢のセリフを読んだとき、まだ大学生なのに、貴重な時間とか、人生は短いとか言ってみせる永沢に対して、あまり共感できなかった記憶があります。

しかし今、それなりに歳をとった私は思うのです。この永沢のセリフは、ある意味では、非常に正しい。

人生の時間は実に有限であるということ、だからこそ、つまらない本も音楽も映画も、できる限り避けて通りたい。「俺の貴重な時間を無駄に遣わせるな」という思いが、私の中で人生最高潮に達しています。

我々は、生まれてから死ぬまでの間のことを「人生」と呼びます。

時間とは人生そのもの。時間の無駄とは、すなわち人生の無駄。ここ数年、いろいろな体験をする中で、私はそう確信するようになりました。

この考えに基づけば、永沢のように、相当な年月を経た作品、いわば「クラシック」しか読まないという選択肢は、有意義であり効率的です。

長い時間を経た後でも、高い評価をされ続けているということ自体が、その作品の質を保証しているからです。この方法なら、ハズレくじを引くリスクを低くすることができます。

もちろん、まだクラシックにはなっていない「新しくて優れたもの」に出会うためには、時間を無駄にするリスクを取らないといけません。クラシックしか相手にしないというのも、それはそれでさみしい。自分が生きている今の時代を反映した作品にもふれたい。

さて、では現代において、時の洗礼は変わらずに機能し続けているのか。私は疑問を抱いてしまいます。

その最大の理由はインターネットの出現です。かつてネットが存在しなかった頃、一過性の流行りものは、時間が経つにつれて世間から忘れられていくことも多かった。

しかしインターネットのおかげで、現代人は膨大な量の音楽や映画や書籍などを、検索さえすれば、何らかの方法で見聞きすることができるようになりました(書籍は、紙でのみ出版され、既に絶版になっているものは入手困難なものも多いですが)。

これからの時代は、どうでもいいような音楽や映画も、世界のどこかのサーバに保存されている可能性が高まる。そして、それらはネットという海の上を、半永久的に漂流するわけです。

そのように考えると、時の洗礼は、かつてのようには機能しなくなる。いや、既に機能していないのかもしれません。

人によっては、スマホやPCの画面に映った「人気上昇中」などと薦められている作品だけを見聞きして、適当に満足してしまうかもしれない。実にもったいない話です。

ただし、考え方を変えてみれば、現代ほど、よい作品と、そうではない作品が隣り合わせで存在する時代はなかったとも言えます。

たとえば、Apple Musicのアプリをスマホで開いたとします。すると、そこには、素晴らしい音楽の数々に、タップひとつでアクセスできる世界がある。

その一方で、お世辞にもいいとは言えない音楽にも同様に、タップひとつで出会ってしまう(まあ、これは悪いほうの出会いですね)。

良くも悪くも、種類・質ともに多種多様な作品に、簡単にアクセスできるのが現代です。これはネット出現以前とは比較になりません。

つまり、かつてと同じような時代の洗礼は機能しなくなったが、優れた作品を見つけることは、現代のほうが遥かに容易になっていると言えるはずです。

そのときに必要なのは、ただひとつ、「好奇心」だと思います。

好奇心の大切さを「食」に例えてみます。

もしも、あなたが住んでいる街のラーメン屋のラーメンが美味しかったとする。そして、あなたは、そのラーメンに心から満足している。

しかしそこで、「隣街のラーメン屋に行けば、もっと美味いラーメンがあるかもしれない。あるいは、まったく違った美味しさに出会えるかもしれない」と思えるかどうか。それが人生の分かれ道です(大袈裟か?)。

実を言うと、私自身が、1980年代の洋楽全盛の時代に英米のロックやポップスを聴き始めて、それまで親しんできた日本のポップスを貶していた時期があります。「俺は洋楽至上主義だ」なんてことを、高校の同級生に向かって言っていたのです。

しかし、その後、クラシック音楽を聴きはじめ、その繊細かつ豊穣な世界に圧倒されます。さらにはジャズにも出会い、そのクールでありながらも活力に満ちた世界に魅了されます。英米のロックが一番などという考えは、実に浅はかだったと思い知らされたのです。

音楽だけではありません。一冊の本、一本の映画が、人生を変えることさえある。少なくとも、人生の質を左右するのは確かです。

音楽アプリを開いたとき、いつもと違うジャンル、いつもと違う音楽家の作品を選んでみる。映画アプリを開いたとき、いつもと違う監督や俳優の作品を選んでみる。それだけのことで、未知なる世界が広がっていく。

時の流れが、質の低い作品を自動的に淘汰してくれる機能は、もはや失われたのでしょう。しかし、優れた作品は変わらず、我々の目の前に存在し、かつてよりも容易に見つけることができる。それと同時に、よくない作品も、同じくらい近くに存在する。

そこで問われるのは、やはり、自分がまだ知らないものを知ろうとする気持ちです。それは芸術のみならず、すべてのことに通じると思います。

知りたいという心が人生を豊かにし、この変わりゆく世界を理解するための鍵にもなる。そのことは、今も昔も、そして未来でも、ずっと変わらないのかもしれません。